第518回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第517話 沈勇 佐久間 勉 大尉の事。 2013年7月23日 火曜日の投稿です。
海軍兵学校という所は、基本的には、例外もあるのであるが、0800時から1200時までが、
授業で、 ラッパ信号がなると、生徒食堂に集合して、1210時から、昼の食事が始まるのである。
それ以前に、急いで、生徒食堂に整列して、先輩、分隊の幹部を待たなければならないのである。
【海軍兵学校、 生徒食堂の様子、 昭和初期 古写真 】
急いで、食事をして、 なんだかんだと、していると、すぐ、午後の授業が
1310時から、開始されるのである。
ちょうど、昼で、腹がふくれて、少し眠くなるのであるが、 そんなことは、許され
ないのである。
【 海軍兵学校 聴講授業の様子 古写真 昭和初期頃 】
そして、午後の授業が始まったのであった。
ノートも何もない、聞くだけオンリーという、そういう授業で、前の方で、聞きたい
ところであるが 、前にも説明したとおり、海軍兵学校のクラスの席順は、
成績順で、 小池君や、源田達は、前の方でよいのであるが、 私達は、随分と
後で、 耳をそばだてて、聞いていたのであった。
私のような出来の悪い生徒は、後で、マイクも何もないので、苦労するのであるが、
雷のような、大声で話してくれるので、なんとか、聞き取れるのである。
授業の内容は、「 沈没の英雄、 佐久間 勉 大尉他 14名。」
と言う題名の授業であった。
【 明治43年 沈没して、引き上げられ、呉海軍工廠で、調査を受ける、
海軍第6潜行艇 古写真 】
担当の、海軍大尉が、教室に入室してくると、 ハンモックナンバーの1番の、
指定のされた身分の生徒が、大声で、 「全員、起立、 きょうつけ、 敬礼。」と、
号令をかけて、 教卓から、 大尉が、敬礼して、 「 着席。」という、指示が出て、
初めて、着席が許されるのである。
少し説明しておくと、 戦後の呼び名で、 第一次世界大戦、 大正10年当時、
拠点にして、大暴れし、 対抗手段を持たない、我が国の海軍は、 随分と被害を
出して、痛い目にあったらしい。
日本が、火事場泥棒のように、 ドイツがヨーロッパで、敗戦が近づくと、
攻め込んだのである。
やったわけである。
などを日本海軍特別陸戦隊が、ある日突然、 襲い、 反撃に出てきたのが、
爆雷など無い時代、 一方的に、水中から反撃され、随分と沈んだらしいが、
当時は、海軍が被害を隠して、 国民にはウソの発表をして、隠したらしい。
などに、圧力をかけられ、占領した山東半島を返還したのである。
それを、 戦後の呼び方で、「 三国干渉 」というのであるが、 当時の日本は、
をえなかったのである。
つまり、 我々の言うことを飲めないのであれば、貸してある借金を返せと言うわけ
である。
貧乏国家は、つらいところで、特に陸軍では、多くの戦死者を出したのに、「返還
とは、何事かと。」 こんな事になって、 外務省、 総理大臣に、文句を言い、
それ以後、イギリス、アメリカ、フランスなどと、 犬と猿になっていったのであった。
手本に、 見よう見まねで、潜水艦の建造と、魚雷という、新兵器の開発に、
力を入れていったのであった。
【次回に続く。】