第519回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第518話   海軍兵学校 軍人の本分を尽くす事。       2013年7月24日 水曜日の投稿です。
 
 
 
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 海軍大尉は、黒板に、「 軍人の本分を尽くす。」 と、 白色チョークで書き込むと、 後の方の
 
 
  席にいた私は、視力が弱いので、眼を細めて、その字を見つめたのであった。
 
 「 本日は、貴様らに、「軍人の本分とは何か、」 と言うことを話して聞かせる。 おい、そこの生徒、
 
 貴様は、軍人としての本分というと、どのように考える。」と、指を指して、指名すると、前の方の
 
席の生徒は、立って答えたのであった。
 
 
 
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      起立をすると、「 自分は、大日本帝国の為に、戦死する事が、軍人の本分と考えます。」
 
      と、こう解答すると、大尉は、しばらくも無言で間を開けると、「 それも、立派な事である。
 
      と、返事を出すと、今度は、別の前の座席の生徒を指さして、「 貴様は、どう考え
 
      るか。」と、 問いただしたのであった。
 
     
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           すると、その生徒は、 「 上官の命令を戦死するまで忠実に実行し、戦友を大切に
 
           する事が、軍人の本分であります。」と、解答したのであった。
 
 
            海軍大尉は、我が意をえたりという、そんな感じの顔つきをすると、「 2人とも
 
           着席せよ。」と、指示を出すと、 私達にこう話したのであった。
 
          「 日本海軍では、上官の命令は、天皇陛下の命令と心得、忠実に実行せよ、
 
          大きな組織、 大勢の人間で、ひとつの事を実行し、あるいは、そのほかの場合に
 
          おいても、各自が戦死の直前まで、命令を守り、 全員でひとつの事を実行する。
 
          簡単なようで、大変難しいことである。
 
          今日、話して聞かせることは、 その軍人の本分を全うして、殉職した軍神の話を
 
          貴様らに話して聞かせる。」 と、 そんな前置きで、授業が始まったのであった。
 
 
 
 
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           私は、後ろの席で、聞き漏らしてはならじと、耳をそばだてて聞いたのであるが、
 
           話の内容は、こんな事であった。
 
           今から12年前の明治43年4月15日 1000時に、山口県岩国基地沖を抜錨して、
 
           歴山丸という、監視船と、第6号潜水艇は、山口県新湊沖に転進し、 ここで、ガソリン
 
           エンジンによる、水中航行演習をおこなったのである。
 
 
 
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       【明治43年に海底より、引き上げられ、呉海軍工廠で調査される第6号潜水艇古写真】
 
 
 
 
 
       演習とは、新しいガソリンエンジンを積んで、水中に潜行したまま、海上にシュノーケル
 
       ならぬ、新開発のノズルを出して、 吸気、排気を行い、潜行したまま、航行することを
 
       実験する予定であったと伝えられている。
 
       乗り組んだのが、 潜水艇の艇長に、 佐久間 勉 海軍大尉 【 海兵第29期卒 福井県
 
       三方郡八村出身】以下、総員14名が、乗船し、広島湾方向に、歴山丸を離れ、航行を開始、
 
       同日の 1045時までは、海面から、潜望鏡などが見えていたのであるが、 見えなくなり、
 
       ここからが問題である。 それ以後、連絡が取れなくなったのである。
 
       歴山丸の見張り員は、愚直に、様子を艦橋に報告していたのであるが、どういういきさつか、
 
       随分と時間が経過し、呉の司令部に、浮上してこないと、報告があり、 救助が始まったのは、
 
       翌日の16日 この日に場所の特定が行われ、翌日の17日に引き上げが行われたらしい。
 
       引き上げてみると、 14人の内、 12人までは、自分の持ち場で絶命しており、他の2名
 
       も、修理場所で、絶命していたのであった。
 
       これを、海軍6号潜水艇事件という。   内部に暗闇の中で書かれたと推察される、佐久間
 
        海軍大尉の遺書が見つかり、事故の顛末が細かに記入されていて、後日の原因究明に
 
        役に立ったのであった。
 
       当時海軍では、死の直前まで、自分の持ち場を、命令を守り、死守して、見事な行いで
 
       あったと言うことで、 呉鎮守府の近くに、 6号潜水艇神社と言う名の神社を、私が、
 
       
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              【当時の広島県鎮守府、潜水学校付近の6号潜水艇神社 古写真 】
 
 
 
 
兵学校に入学した前年の 大正9年12月1日に、潜水艇を保存して、 14名の英霊を奉ったので
 
 あった。
 
      つまり、 取り乱すことなく、死ぬるまで、命令を守った、美談として、語り継がれて
 
    いる事件であるが、 当時の陸軍も、海軍も、 何事も神様に祭り上げ、 日本人の心を
 
    煽動していたのであった。
 
     東郷元帥が死去したら、 東郷神社、  乃木大将が、自決されたら、乃木神社、 こんどは、
 
    第6潜水艇神社である。
 
    何事も、天皇陛下を、神様だとたてまつり、 何事も、神様を利用して、物事を進めていったの
 
    であった。
 
    靖国神社なども、その延長線にある神社である。
 
    戦後の現在、考えると、 神様とは、人々の生活の心の支えであるべきであって、戦争の遂行
 
    や、国民を政治的支配管理するために、宗教を利用してはならないと私は考えている。
 
     宗教の名のもとに、人殺しなど、正当性はなく、 やってはいけないことである。 
 
 
【次回に続く。】