第520回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第519話  作り直された、第6潜水艇の事故の顛末。  2013年7月25日木曜日の投稿です。
 
 
 
 
  私達は、海軍兵学校の教室で、 軍神 佐久間 勉大尉のお話を、興味深く聞いていたのであった。
 
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          私は、どういうわけか、こう言う、軍神の英雄のお話を聞くというのは、とても好きで、
 
         いずれは、我も、そうならんという、野心的気持ちで、一杯になったのであった。
 
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     そうーー、古い話であるが、私は、昭和17年6月のミッドウェイ海戦の出陣で、 赤城の
 
     艦橋から、ロープを使用して、退去の最中、爆発に巻き込まれて、両足に重傷を負い、
 
     キズがまだ癒えぬ、同年10月10日付にて、海軍大学教官という、ポストに、痛々しく、松葉杖を
 
     ついて、着任したのであった。
 
      そこでの仕事というのは、又、後日詳しく紹介するのであるが、そこに、呉海軍工廠 
 
      海軍少将 伊地知季珍 という少将【当時】がとりまとめた、第6潜行艇 事故調査報告書
 
      というのが、 おいてあって、 両足を包帯でグルグル巻のまま、痛々しい姿で、それを
 
      読んで見ると、海軍兵学校で教えていただいた、話とは、少し違っていて、 少し長くなるので
 
      あるが、  ここで紹介すると。 
 
 
 
 
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                 【沈没してから、引き上げ後に、調査された第6潜行艇 古写真 】
 
 
 
 
       佐久間 勉大尉の上官は、 第1潜水隊司令 吉川安平中佐であった。 
 
      中佐は、豊橋という、水雷母艦に乗艦して、 事故とは別の場所の、山口県上ノ関沖にいたらしく、
 
      明治43年4月15日 0938時に、 ロシアからの拿捕した船、アレキサンドリア号こと、歴山丸
 
      に、下士官の佐薙一逸一等兵層他を残して、 第6潜行艇は、歴山丸から分離して、自力航行
 
を行ったのであるが、1010時、潜行開始の操作をおこなったのであるが、 どういうわけか、機器が
 
作動がおかしく、潜行できない状態が続いたらしい、 1045時にやっと、艦が潜行し始め、 今度は、
 
そのまま、傾斜したまま、17メートルの海底に、斜めのまま、着底してしまったらしい。
 
  記録によると、 カタカナで、 スルイスバルブのチェーンが外れて、 エンジン内部、配電設備が
 
進水し、電源を消失し、 艦内が暗闇となり、 ガソリンが気化したガスが、艦内に流れ、 ここで、1220
 
時になって、 メインタンクの海水を、排水しようと、高圧空気を送り込んだところ、どういうわけか、高圧
 
空気が艦内に充満し、耳の鼓膜が破れそうな、そんな高圧の状態になり、1230時より、手帳に、
 
顛末を記入開始し、 1240時には、意識が遠のいて窒息し、死に至ったとあったのである。
 
 問題は、歴山丸で、第六潜水艇を監視していた、見張員は、愚直に、先任下士官の、佐薙一逸
 
一等兵曹に、潜行を報告したのであるが、彼は、また、長時間の潜行訓練がはじまったと、誤認して、
 
そのまま、放置し、異変に気がついて、岩国沖のロシアからの拿捕船を改装した、韓崎という、
 
潜水母艦に乗艦中であった、第7潜行廷の艇長、大田原少佐宛に、不可解な状況をモールスで
 
打電したのは、夕方の1700時であった。
 
 大田原少佐から、すぐさま、潜水母艦 韓崎の艦長 中野直枝大佐に報告が入ったのは、その5分後、
 
そして、呉鎮守府司令長官の加藤友三郎 中将 【のちの内閣総理大臣】に、
 
 
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                 【事故当時、呉鎮守府 司令長官であった。 加藤友三郎中将 】
 
 
    事故の報告が上がったのが、書類には、2000時頃、 すぐさま、岩国湾の第17駆逐隊に、
 
    第六潜行艇の捜索命令が、発令され、  韓崎の中野大佐にも、潜水夫などを乗艦させて、
 
    夜間現場海域に、急行せしめ、 直接の上官である、 豊橋に乗艦していた、第1潜水隊司令
 
    吉川安平中佐に、 事故の報告が入電したのは、 午後2100時で、 翌日の16日 早朝より、
 
    現場海域にて、捜索が開始され、  沈没位置の特定は、16日1530時頃であったと記載があった
 
    のである。
 
     そして、やっと第六潜水艇の救助が開始されたのであった。
 
 
【次回に続く。】