第521回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第520話 第6潜水艇の救助が開始される事。            2013年7月26日 金曜日の投稿です。
 
 
 
 呉海軍工廠 伊地知季珍少将【いじちすえたか のちの海軍中将】の事故報告書によると、
 
明治43年4月15日1045時に、第6潜水艇の事故が発生して、実に、29時間45分前後経過して、
 
 翌日の16日15時30分 潜水母艦 韓崎の潜水夫が、これを発見し、ただちに、アンカーを
 
取り付けた、ブイを撃ち込んで、目印とし、
 
 
 
イメージ 3
 
 
 
 
 
 他の艦艇に、知らされ、そのブイを取り囲むように、停泊、潜水作業の指揮官に、大田原 達 
 
 海軍少佐【海軍兵学校第26期】を指名し、救助活動が開始されたのであった。
 
 
 
イメージ 7
 
 
 どうして、大田原少佐が、選ばれたかというと、現地で、潜水艇同型艦 第8潜水艇の艇長を、
 
 務めており、 同じく、第9潜水艇の艇長 中城 虎意大尉が、その補佐の任にあたったのであった。
 
  通常艦艇の人間より、餅は餅屋にと言うわけであったようである。
 
 
イメージ 1
  
 
 
           資料によると、水夫に、ハンマーを持たせて、潜水艇の側面をたたいて、 モールス信号を
 
  送る事を試みたのであるが、どの場所でも、内部から全く反応がなく、 続いて、呉から来た、
 
 サルベージのフックをタマ掛けする作業が開始されたのであった。
 
   現在ならいざ知らず、当時の水深17メートルという数字は、随分と、作業が難航したらしく、
 
   完全な形で、引き上げられたのは、日付が変わった、翌日の17日になってのことであった。
 
 
 
 
イメージ 4
 
 
 
   メインタンクの海水のバラストを抜かないと、重量が過大になると言うことで、排水作業が行われ、
 
    内部の乗員の救助は、後回しにされたらしい、と言うのが、 有毒ガスが充満し、2次遭難が予想され、
 
   艇内の換気など、色々行った後、 監視船 歴山丸で、監視作業をしていた、佐薙一逸 一等兵曹が、
 
   艇内に入りたいと、志願したらしいが、 暗闇の内部に入ると、倒れて、上がってこれない危険性が
 
   あり、 当時は、随分と、躊躇されたらしい、しかし、彼は、第6潜水艇の狭い内部を、よく把握していて、
 
   暗闇の中でも、何とかなるとの申し出に従い、腰にヒモを結んで、内部に入り、倒れた戦友を
 
   随時運び出したのであった。
 
 
イメージ 2
 
 
          すぐさま、手旗信号にて、情報は、周囲の艦艇に送られ、第6潜水艇と、乗員の遺体は、
 
           呉の海軍工廠に、送られたのであった。
 
          資料には、乗員は、それぞれの持ち場に腰をかけ、絶命し、2名は、修理箇所で絶命
 
          していたと、申し立てがあるのであるが、 申し立て人は、 大田原 達 少佐と、
 
          中城 虎意 大尉【海兵28期卒】の連署でなされていたのであった。
 
 
イメージ 5
 
 
            呉に14人の遺体が運ばれ、軍医が検死したところ、全員、有毒ガスによる、
 
           窒息死と言うことがわかり、 遺体を改めると、艇長、佐久間 勉 大尉の衣服の
 
           ポケットから、手帳が発見され、そこには、 明治42年4月15日 1230時と、日時を
 
           記入した、遺言書と、現状の状況を、的確に記入した、メモ書きが発見されたのであった。
 
          呉鎮守府 司令長官 加藤友三郎 海軍中将は、 この水没事故を、一定期間、
 
           
イメージ 6
 
               
               【 当時 呉鎮守府 司令長官であった、加藤友三郎中将 海兵第7期卒】
 
 
           機密保持のため、新聞などへの発表を一定期間禁止したのであった。
 
           それは、当時としては、 適切な処置である。 
 
           当時、潜水艇というのは、日本海軍の秘密兵器であり、 東京の海軍省とよく協議して、
 
            その後、事故の発表をするべきであると、加藤司令長官は、判断したのであった。
 
 
【次回に続く。】