第523回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第522話 第6潜水艇事故、 現場検証の事。 2013年7月28日 日曜日の投稿です。
明治43年4月20日 呉海軍工廠長 伊地知 季珍 【いじち すえたか】海軍少将らによって、
第6潜水艇の現場検証が行われたのであった。
海軍大学の資料によると、いろいろと記述があったのであるが、わかりやすく、同郷の同期、
紹介すると、 日本の潜水艦という物は、明治政府が、ロシア海軍を迎撃するために、 日露路
戦争前に、米国のエレトリック、ボート言う民間会社と、水雷艇5隻を注文契約したのであったが、
中立を保つために、建造されたのであるが、どういうわけか、アメリカの海運会社の貨物船が、
海戦は、終わった後であったのであった。
【第1号潜水艇 横須賀軍港にて、 古写真】
行って、 1号艇から、5号艇まで、整備され、 この5隻を当時は、設計者のアメリカ人、
ただちに、海軍では、1号艇から、5号艇までの、5隻を主力として、第1潜水艇隊が、発足し、
【明治38年10月に発足した、日本で初めての潜水艦部隊 中央 小栗中佐 古写真 】
明治38年10月1日に、 1号艇 艇長兼、司令官として、小栗孝三郎中佐が、部隊の
指揮官として、着任して訓練が始まったのであった。
ちょうど私が3才の頃、 源田と小池君が、よちよち歩きの2才の頃の出来事である。
小池君の話によると、このホランド型というのは、 エンジンをかけて、16キロ前後、約6ノットしか、
出ず、 左右は舵がきくのであるが、 上下が出来ない代物であったらしい、 つまり、潜水舵が、なかった
のである。 通常潜水艦という物は、潜水舵を操作して、潜行したり、浮上したりする物であるが、
そのような物がなく、「 どうしていたんかいな。」と、聞いて見ると、潜行するときは、前のタンクを、
注水して、前を重たくして潜行し、後を注水して、徐々に、艦を水平に保ち、 そのまま、沈んでいき、
浮上するときは、その逆を行うというのであるが、 先生もいない当時、自分たちで、想像して、
動かしていると、前を下にして、ドンドン沈んで、艦が逆立ちしたり、 逆になったりと、随分と扱いに
くいどうしようもない潜水艇であったそうである。
大正10年4月に、除籍処分になったのであった。
に、相談したらしい、 しかしながら、予算が当時、日露戦争後で、僅かしかなかったのである。
川崎造船所は、「 御国のために奉仕させていただきます。」と、当時の社長の松方幸次郎氏が、
だったのである。
これを、当時は、改 ホランド 型と呼んでいたらしい。
この2隻は、寄付に近い形で、建造されたのであるが、漏電、浸水、など、トラブルが多く、使い物に
ならない程度の物であったらしい。
水中では、わずか、8キロ程度、 つまり、自転車の方が、速かったのである。
そして、潜行には、前文で紹介した、難しい注水操作を必要としたようである。
問題が多く、 岩国に第6潜水艇を留め置いていた。」と、証言があったわけである。
これではまずいと、海軍が、イギリスから購入したのが、ビッカース C1型という、2隻の潜水艇で、
【ビッカース C1型 第8潜水艇 古写真】
【 ビッカース C1型 第9潜水艇の古写真 】
大田原 達 少佐【海兵第26期卒】 と、 第9潜水艇 艇長 中城 虎意大尉 が、指揮していた
潜水艇であったのである。
【 事故後、 現場検証を売れるときの第6号潜水艇 古写真 】
呉海軍工廠のドックに入れられ、水を抜いた状態で、現場検証が行われたのであった。
その後、海軍大学の報告書には、 驚いたことが、記載されていたのであった。
【次回に続く。】