第524回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第523話 改ざんされた、 海軍第6潜水艇の遺書の事。     2013年7月29日 月曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
      明治43年4月18日 伊地知海軍少将らは、事前に、佐久間大尉のメモ書きを目を通し、
 
スルイスパイプ破損という、記載に注目し、呉海軍工廠内のドックに、とめおかれていた、第6潜水艇
 
内部を、現場検証したのであった。
 
 
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           【事故後、 呉海軍工廠内にとめおかれていた、 第6潜水艇の古写真】
 
 
 
  スルイスパイプ破損とは、ガソリンエンジンの吸気、排気管のことで、 このパイプから、浸水
 
が有り、 手動で閉めようとしたら、間に合わず、大量の浸水が、機関室に入り、エンジン、 電源が
 
壊れてしまい、艦内が、真っ暗となり、ーーーーーー云々と、あるのであるが、一行が確認したところ、
 
スルイスパイプは、破損しておらず、開閉のふたのチェーンが外れて、 開閉不能になっていることが、
 
わかったのであった。
 
 
 
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                            【潜水艦の内部    古写真 】
 
 
 また、機関室に流入した、海水によって、ガソリンが漏れだし、 ガソリンの悪臭が、艦内にただよい、
 
狭い船内の空気が、汚れてしまった。
 
   暗い船内で、 バルブ操作を誤ったのか、 高圧の空気が、艦内に流入し、 死期をを早めたようだと、
 
報告書に記載されている。
 
     事故報告書の期日は、明治43年6月15日の日付があり、  随分と後になって、正式な報告書が
 
出たようである。
 
 
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     驚いたことに、報告書に添付されている、別の用紙には、 4月18日の日付で、
 
「急いで遺書を書き直しせよ。」  と、電文があり、 「4月20日に 葬儀を呉鎮守府で執り行い、東京
 
からは、 東宮の侍従武官が、東宮【後の大正天皇】の名代として、参列するので、その際、軍事上の
 
秘匿事項である、数値、名称、原因の特定につながる記述などを削除せよ、 東京では、明治43年
 
4月20日 1500時に 事故を発表を行い、訂正された、遺書なども、公表するとあり、 1時間後の
 
1600時に、 呉鎮守府でも、事故を公表せよ。」  とあるのである。 
 
 
 
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  つまり、この文章を見る限り、遺書は直された物であり、 本物の遺書はと言うと、 東京の海軍省
 
送られ、保管されていたのであったが、大正12年の関東大震災で焼失したとある。
 
  書類には、その白黒写真が添付されていたのであった。
 
 
つまり、私達が、兵学校で教わった、 佐久間艇長の、遺言は、事故後、呉海軍工廠で 作られた物で、
 
本物の遺書ではないようである。
 
  明治42年4月20日  東京から 東宮【のちの大正天皇】の名代の 東宮侍従武官、 千坂智次郎
 
中佐が、呉鎮守府に到着し、第6潜水艇の事故死者、14名の葬儀が行われたのであった。
 
 
 
 
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【主人公が在校していた当時の 海軍兵学校長 千坂智次郎中将  海兵14期 山形県米沢市出身】 
 
 
 
   ここで、ふと気がついたのであるが、 東宮侍従武官 千坂智次郎中佐とは、のちの、私が、海軍兵学校
 
在校時の校長の千坂智次郎 中将のことで、なにやら、 いろんなつながりがある物だと、当時私は、
 
感じたのであった。 
 
 このようないきさつで、当時は、潜水艦という物は、秘密兵器で、数字、名称、内部構造が推測できそうな、
 
 熟語というのは、 海軍省の指示で、 佐久間 勉 大尉の手帳の遺書から、削除が決まり、
 
 同じ種類の同型の手帳に、呉海軍工廠で、 問題のない部分の模写が行われ、 世間に公表されること
 
になったのであった。  
 
 
【次回に続く。】