第525回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第524話 新聞に報道された、第六潜行艇事件。   2013年7月30日火曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
   明治43年4月20日 山口県新湊沖の第六潜行艇の水没事故から、5日後、 潜水艇の引き上げから、
 
3日後、 海軍の公葬として、14名の葬儀が、東宮【のちの大正天皇の】侍従武官の臨席のもと行われ、東京
 
海軍省より、20日の1500時、  呉鎮守府より、同日の 1600時  軍事上、公表できない、 数値、顛末、
 
その他軍事上の機密に該当する文言をを削除した手帳の文章を書き直して、新聞社などに、発表が行われ
 
たのであった。
 
当時、遺体の保存の関係上、ぎりぎりの日にちであったと、考えられる。
 
 
イメージ 1
 
 
                 【海軍省が発表した、佐久間 勉大尉の遺言の手帳の古写真】
 
         呉鎮守府のだれかが、訂正して、作成したかは、海軍大学の資料には記載がないが、
 
        おそらく、加藤中将の命令を受けた、鎮守府参謀の手によるものと推察する。
 
         それは、実に多方面に配慮した、遺言の内容で、よく組み立てられた文章である。
 
        こうして、見ると、 海水のシミ、 汚れなどがないが、 同型の手帳の用紙と思われる。
 
        この訂正された、遺言状が、明治天皇に対して、お預かりした潜水艇で事故を起こしーー云々
 
        と、死を前にした、陳謝から始まり、 乗組員の家族の今後の生活の心配までした文章は、
 
        新聞記者の手で、日本全国、配り歩かれ、 又、各国大使館附き武官の翻訳で、世界各地の
 
        海軍に、事故と遺書が、伝えられて、 随分と反響があり、 死を前にして、明治天皇への配慮
 
         齋藤海軍大臣への遺言、 艦隊の上司への遺言、 郷里の福井県の恩師への遺言と、大変
 
         立派な心がけの遺言と2、3日の間に評判になったのであった。
 
         
イメージ 2
    
 
                    【潜水艦の内部の古写真     昭和初期頃 】
 
 
      又、外国の駐在武官からは、 乗員が、定められた配置のまま、眠るように死去していたと
 
       紹介されたため、 「 ロシア艦隊を撃破した、日本海軍の強さの秘密。」と、 紹介され、
 
       各国の軍隊内で、紹介され、アメリカの士官学校でも、 「 軍人として、命令を最後まで
 
       死ぬまで遂行したと、賛辞を添えて、紹介されたのである。」
 
 
イメージ 4
 
       陸軍でも、各地の師団宛に、連絡が行き、 さすがは皇軍兵士と、報道部が紹介し、一躍、
 
       14名の死者は、 英雄になったのであった。
 
       東宮侍従武官の帰京後、 宮城【現在の皇居】にて、詳細に報告がなされ、 その後、 殉職者
 
       14名の家族に、今後の生活のために、特別に金銭が、天皇より特別に、恩賜されることが、
 
        宮内庁より発表されると、又々、新聞で、このことが、発表され、誌上で紹介され、  
 
       第六潜行艇の記念碑を建てる寄付の話が、朝日新聞の誌上で紹介されると、
 
 
 
イメージ 3
 
 
   【呉鎮守府内の第六潜行艇 神社  古写真  現在は、終戦時に占領軍に解体され、碑のみ。 】
 
 
       全国から、不景気にかかわらず、 多額の寄付が集まり、その費用で、第六潜行艇の
 
       神社が、設立されたようである。
 
       この第六潜行艇の事件は、 その後、ドンドンと話が拡大解釈され、 大日本帝国
 
       破滅に導いていく、原因のひとつになって行くのである。
 
       海軍の破滅の、 潮の流れは、ここから、どんどんと、進んでいくのであった。
 
 
【次回に続く。】