第526回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第525話 拡大解釈されていく、第6潜水艇沈没事件の事。 2013年7月31日水曜日の投稿です。
海軍や、陸軍でも、第6潜水艇の沈没事件を、「軍人の鏡」 として、印刷物を作成して、
新兵教育などに利用し、 一般の民間企業でも、自分の職場の持ち場を、責任を持たせると
いったのである。
実は、後日紹介するのであるが、 水兵は、消耗品の品物で、 下士官は、それを束ねる
ヒモのような物と、教えられていき、 人を、人と思わないような教育を私達は、海軍兵学校
で受けていくのである。
戦闘中、頭のひたいに穴が開いて、 血が噴き出した兵士、 頭が半分吹き飛んで、 脳みそ
が甲板に流れ出した、兵士、 手や、足が吹き飛んで、 血が吹きだした、兵士を見ると、
誰でも、怖じ気づき、逃げ出すのである。
そういうことを防止する教育というのは、明治の初めから、行われていたのであるが、
大砲の音を聞いて、逃げ出すようでは、軍隊は成り立たないのである。
肝試しと称して、捕虜の首を飛ばしたり、 いろいろと、あの手この手で、色んな事を
やっていたようであるが、 この第6潜水艇の沈没事件ほど ちょうど良い教材は
無かったのであった。
「 命令を何があっても、死ぬまで遂行し、 自分の持ち場を守って死ぬ事こそ、
軍人の本分。」 と言うまでならまだよかったのであるが、10年、20年たっていくと、
どんどんと、進化を遂げていくのである。
「 天皇陛下から、お預かりした、艦と運命をともにする。」 などという発想が
海軍の中に、根付いていったのである。
私が乗っていた飛行機も、おかしな物で、 海軍としては、空の船と考えていたのである。
そういうわけで、第1航空艦隊などと、飛行集団の部隊に、航空艦隊と名前をつけて、
部隊運用していたのである。
運命を供にするのは。軍人のつとめである。 」などという、愚かな考えが、出来てきた
のは、昭和の時代に入ってからである。
つまり、船も、飛行機も、潜水艦も、自分の配置の持ち場について、逃げずにそこで
最後まで戦って、玉砕しろと言うわけである。
後日詳細を紹介する予定であるが、 アメリカの航空隊は、 パラシュートで脱出したら、
ポイント事に、潜水艦が待機していて、 可能な限り乗員を救助するのである、
拾い上げて、 又、基地に戻って、新しい飛行機で、攻撃してくるのである。
脱出時に、無線で連絡したり、 不時着を一緒に飛んでいた機のパイロットが、無電で
報告すると、 危険を冒しても、救助に来るのである。
そして、ついでに、日本の輸送船を、魚雷で攻撃するのである。
日本海軍では、「愛機と運命を供にして、肉弾となって、砕け散らん。」などという、
号令の元、多くの搭乗員が、死ななくてよいのに、死んでいったのである。
パラシュートなど積んでいると、「 臆病者、 精神がゆるんどる。」などと、誹謗中傷し、
そういう私も、 パラシュートなど、積んで飛んでいなかったのである。
どんどんと、 パイロットが少なくなっていき、 戦争に負けていくわけである。
船に見立てた、航空艦隊という名の部隊で、第6潜行艇の14人の軍神のお話を
繰り返し、繰り返し、聞かされ、 「自分の命は、大日本帝国のものであります。」
と、なんども、なんども、叫ばされ、 自分の配置場所で死ぬ事が、美化されていき、
多くの人が、若者が、搭乗員が火だるまになって死んでいったのである。
ミッドウェイ海戦の時、加賀の艦長、岡田次作大佐は、爆発に巻き込まれて、艦橋が
吹き飛んで、 他の幹部と一緒に、一瞬のうちに戦死したのであるが、 他の艦長はと言うと、
蒼龍の艦長の柳本大佐は、部下の再三の退艦願いにも、かたくなに拒み、「天皇陛下万歳。」
を叫びながら、火の海の中に消えていき、 飛龍の山口少将、 艦長の加来大佐も、
艦と運命を供にすると言って、 縄で身体を縛り付けて、 飛龍と一緒に沈んでいき。
失ったのである。
赤城の艦長、青木大佐は、 他の乗員に、引きずり出されて、救助されたのである。
私は、昭和17年10月に、 松葉杖をついて、軍務に復帰したのであるが、 「 なぜ、
赤城と一緒に、死ななかったのか。」と、同期のある、大佐に、頭から、酒をかけられて、
青木大佐が、辱めを受けた話を、人づてに、聞くに及び、 この第6潜水艇事件の
教育が、多くの人々を、苦しめ、死地に追いやっていった、 そんな、考えに至ったので
あった。
当時は、そういう時代であったと、言ってしまえば、それまでになってしまうが、
1度引き上げて、体制を整えて、十分、武器弾薬を整えて、再度、攻撃すると言うことが、
どうして、出来なかったのか、 貴重な搭乗員を救助して、新しい飛行機で、再度攻撃する
という事が、どうして出来なかったのか。
それを出来ないような、宣伝活動というか、 そういう世論を作っていったのは、
陸軍と、海軍の報道部と、 新聞記者とラジオであった。
それを後から動かしていたのは、 少なくとも、昭和10年過ぎからは、
東条大将らの一派と、近衛文麿などの、陸軍の軍人を利用して、政治を
行っていこうとする一派と、 陸軍と協調を保って、海軍を保とうとする、
及川海軍大将の一派であった。
米内、山本、井上などの、 ドイツとの同盟反対、英米との開戦反対派は、
徐々に、中央から、放逐されていったのである。
多くの人々が、時代の渦に、巻き込まれていったのである。
【次回に続く。】