第1460回 昭和の伝道師【 戦中戦後のパイロットの物語 】

第1459回 第70号 潜水艦沈没事件の事。 2016年3月1日火曜日の投稿です。





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    前話で、兵庫県 神戸市の川崎造船所の由来などを簡単に紹介したの

  ですが、 時期的に言うと、 関東大震災が発生する10日前程度の話ですが、

  1923年 大正12年 夏の暑い日の8月21日に 事件は発生したのです。


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                【 上海で接収された ドイツ海軍のUボート 】


    ドイツ海軍のUボートを 日本人が模倣して、 神戸の川崎造船所で建造

された、第70号 潜水艦は、 海軍少佐 上林 潔 【 海軍兵学校 第34

期卒 岡山県出身】 を指揮官として、川崎造船所の職員、 海軍の軍人などが

合同で98名 乗艦して 朝、神戸を出港し、 南に進路を取って、 淡路島の当時

 仮屋 沖 と呼ばれ、現在は 野田という場所の、約5キロ沖合で、 緊急時の

救助などを担当する 随伴艦を用意して、 午前中から潜行、浮上の実験が行わ

れたのです。

  日本海軍の潜水艦の運航規定は、事故防止、迅速な救助を前提に、この当時

必ず、 横に随伴艦を並走させるという規定があったのです。

それだけ、当時、信頼性が乏しかったのです。 

   




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     午前中、3回程度、 浮上、潜行のテストを繰り返し、何も問題がなかった

    のですが、 正午を過ぎて、 13時過ぎに、浮上をして、川崎造船所職員が

    各場所を点検し、その後、 転舵して進路を反転して、随伴艦と共に、神戸

    の川崎造船所方向に帰路についたのです。



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    目撃者の話によると、 なにかに衝突したような、そんな感じで、後の

    スクリューがなんと、 上にどんどんあがっていき、 逆立ちしたように上に

    なり、当時、司令塔などで、哨戒作業などしていた、乗組員、造船所関係者

    10名が 海へ投げ出されたのだそうです。

    3次元的に考えると、 みなさんの今座っている場所が90度突然回転して、

    天井が、下に降りてきて、壁になり、 壁だった場所が 床になったとでも

    表現した方がよいかもしれません。



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    第70潜水艦は、 電信柱のように逆立ちして、 前から沈んでいったのです。

     

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   少し離れて、となりを航行していた、随伴艦は、大騒ぎとなり、証言では、2分

   程度で、 海面から沈んでしまい、泡がぶくぶく出て来て、最後であったそう

   です。

   とりあえず、投げ出されて、海面に浮いている10人を救助し、すぐ電信で、

   この事故は、海軍関係者、川崎造船所関係者の知る所となったのです。

   上林 潔 海軍少佐、以下 88人は、淡路島の野田沖 5キロの海面から

   海中深く、艦首から沈んでいったのです。



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               【  当時の 広島県 呉市 の 呉鎮守府 】


    その報告を受けた、呉鎮守府の司令長官 鈴木 貫太郎 海軍中将は、



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         【  当時の 呉鎮守府 司令長官 鈴木 貫太郎 海軍中将 】




    急いで、駆逐艦などに、潜水具などを積み込むよう指示を出し、

    足の速い駆逐艦の急派を決定したのでした。




   【 明日に続く。】