第2504回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第2503話 日本海練習艦隊 大湊 城ヶ崎陸戦訓練の三年式機砲のこと。


                    2018年12月9日 日曜日の投稿です。  




  【 前話の続きより。】



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   明治の初頭から、陸軍部隊を艦船で輸送し、その護衛 上陸地点の確保と

  言うのは 海軍の受け持ちとされていて、 私達が練習艦隊に配属となっていた

  当時は、昭和の戦前と違い、 専門の上陸部隊というのは 公式には存在せず、

  艦艇の乗組員で臨時に編制し、 指揮統帥は、その艦の艦長が行う事となって

  いたのです。



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  そう言うわけで、 昭和の大東亜戦争のように、上陸専門部隊というのは当時

  存在しておらず、 上海事変の当時、 重巡 利根 の陸戦隊が増派の 増派を

  繰り返し、海軍の陸上専門部隊として 変化していったのです。


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  そういう由来で、戦後の今現在では、海軍特別陸戦隊の起源は、明治の初頭

 とされていて、 具体的に創立されたのは、1932年 昭和7年の上海事変

 以後のこととされています。


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 よって、当時、艦長の命令があれば、海軍士官と言えども小銃に着剣した下士官

 水兵を率いて 作戦指導することが当時の私達に求められ、これらの戦闘の教練

 は江田島海軍兵学校の在校時から教育を受けていたのです。



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  みんな 同じ教科書で、同じ学校で、同じ教官で同様の陸戦教練を受けている

 ので、 優劣などほんのわずかなことで、同様であったので、評定の決定は

 三年式機砲 こと、 重機の射撃競技で競うことになって行ったのです。



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  日本海軍 三年式機砲 とは、 大正3年に陸軍が採用した、38式機銃の

 改良型で、 フランスのホッチキス機関銃の改良型であったのです。

 当時は、大正3年に採用したので三年式○○

 明治38年に採用したので 三十八式歩兵銃というように、年号で表示されて

 いたのです。

 当時、大正3年に陸軍が正式採用した重機関銃 三年式機関銃を海軍も一緒

 に採用し、 大正13年当時、「 三年式機砲。」 と私達は呼んでいたのです。


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    この機関銃、 ホッチキス機関銃が、38式機関銃に進化し、 そして 南部

  陸軍少将が改良して、 38式実包と呼んでいたのですが、クリップ板を装填して

  射撃する機関銃で、 わざと 発射が遅く作られていたのです。

  どういうことかというと、 戦後の映画で、「 ダッーーーーーーーー。」 と

  勢いよく射撃するシーンがありますが、あのようなことをすると 発射の熱で

  銃身が焼けて短時間で発射不能になるのです。

  そこで、 こんな感じに、「 タン、 タン、タン、タンーー。」 と、 そうーー戦後の

  アサルトライフルの セミオート射撃を少し早くした程度に押さえられていたの

  です。

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 こうすることで、発射の弾数を押さえ、弾薬の消費を抑制し、銃身の加熱を押さえ、

 銃身の寿命を延ばすような考えで設計がされていたのです。

   我国がロシア軍の用いていた マキシム水冷式機関銃を採用しなかったのは

 重量が大変重く、運搬に不便であるという点、 そして戦地で冷却水の確保が

 難しい。 という点が上げられて 重量が軽くて、運搬が楽で、 いつでも、水が

 無くても射撃が可能であるという、水冷式のフランス製のホッチキス機関銃が

 採用され、ずっと使われていったのです。


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    確かに 時代は 水冷式から 空冷式に変化し、 水冷式は過去のものに

    なっていたのです。

    私達は、 その三年式機砲で 射撃競技を行うことになって行ったのです。


   【 明日に続く。】