第2510回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
2018年12月15日土曜日の投稿です。
【前話の続きより。】
実は 艦が違う、 つまり私達は 八雲に乗り組んでいたので まったく知ら
することが行われたと、随分たって知ることになっていったのです。
当時の思い出で、「 横須賀の海軍病院や、 当時の最新鋭の戦艦であった
長門の病室というのは きれいな 看護婦さんがいてーー。 ごつぅーーええなー。」
などと、周囲とくだけた忌憚のないお話ししていたのですが、実際は 看護婦などは
おらず、軍医と看護兵の下士官の集まりの病室であったそうです。
したということになっていたそうです。
責任者と当事者は 軍法会議の銃殺刑ものやがな。」 と ひそひそ話をしていた
のですが、その後のお話しでは 浅間で 赤痢など発生しておらず、誰かの命令
でそういうことにしていたようです。
当時、末端の少尉候補生の私達にはよくわからなかったのです。
体調不良となり、 船酔いの吐き気で食欲が衰え、やせ衰え、立って歩けなく
なっていたというのが真相のようですが、 それをそのまま公表すると 皇室の
品位を保てないと言う事で、「赤痢を発症されたので、入院された。」と、一部の
関係者のみに伝えられたようです。
練習航海に出発すると言う予定になっていたそうです。
その間、しばしの間、艦の整備、点検を行うとの命令が出て横須賀に停泊する
事になっていったのです。
しかしながら 当時、いつまで待っても 練習艦隊は横須賀を動くことはなかった
のです。
そして いつまで待っても 高松宮殿下が浅間に戻られることはなかったのです。
【 明日に続く。】