第2129回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第2128話 明治21年頃の外国人裁判官制度の事。

                            2018年4月18日水曜日の投稿です。




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  【前話の続きから。】


  明治時代、 実は 日本には江戸時代から法律があったのです。

 法度、と書いて【はっと】と呼ぶのですが、 しかし、当時の明治政府は、西洋人

 が日本にも西洋諸国と同等の裁判制度、裁判を行う法律がありますと言う事を

 ちゃんとアピールして、 大日本国も、ちゃんとした欧米なみの司法制度を有した

 国家であることを 整える必要があったわけです。

 「 切腹。」「 斬首。」 などは、野蛮国家の典型であったのです。



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             【 司法大臣 山田 顕義 公  山口県出身 】



    そこで、 司法大臣を長く務める事になる 山田 顕義公を中心に、現在の

  裁判所で裁判を行うときに用いている、 民事訴訟法、 そして、その細かな

  行いについて定めている、 最高裁判所法 民事訴訟規則、 そして、世間

  ちまたのいろいろなもめ事に対応する、民法や、 その発生によって、執行する

  民事執行法や、 その細かな事柄を定めた、最高裁判所法 民事執行規則が

  当時の大ドイツ帝国から法律書が輸入され、 後の内閣総理大臣となる

  清浦 奎吾 氏らによって 和訳され、 世間に伝えられていったのです。

  大日本国憲法の制定のお話しは良く知られていますが、 日本の法律の根幹

  は、 大ドイツ帝国の法律であったのです。


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   これらのドイツ式の法律の導入の方針を決めたのは、長州の伊藤 博文 公

 を中心とするグループで、 当時、イギリスの法律を応用すべきとか、フランスの

 法律を応用すべきであるとか、 いろんな勢力が、いろんな事を唱えていた時期に

 外務省と外務大臣 大隈 重信 公が、 外国人裁判官制度を申立たようです。



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  当時の九州の福岡の人達から見ると、 政界を追い出され、立憲改進党

 設立して、 政府の批判を行っていたかと思うと、迎合して、外務大臣となり、

 周囲から、冷ややかな目で見られていた矢先に、 日本の裁判所に、西洋人

 の裁判官を据えようとする行為に及んでいた、大隈 重信公に対して、多いに

 批判が高まっていったと言われています。



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  特に九州では、 明治19年8月に発生した 長崎事件に、イギリス人などの

 長崎に滞在する弁護士などが介入し、 清国海軍が悪いのに、日本が しこたま

 損害賠償金を請求され、 大きな批判が高まっていた当時、 日本の裁判所の

 裁判官に、西洋人の 言葉もわからない外国人判事を据えようとする、外務省と

 外務大臣 大隈 重信 公に対して、 天誅を加える必要があるという考えが

 発生していった様です。



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   筑前国 黒田藩の失業した士族の互助会からスタートして、その後、商工

 会議所のような組織になっていった福岡の 玄洋社【げんようしゃ】は、明治19

 年の長崎事件前後から、「 国を磨く。」 と称して、 政治に対する討論が行わ

 れるようになって行き、 数年後、 政府の批判を行うようになって行き、そこに

 大隈 重信 公は、 西洋諸国に 神国日本を売り渡そうとしていると、批判を

 繰り返すようになって行き、 批判をするだけでなく、 「それを阻止しなければ

 ならない。」という人達が出て来たのです。


 【 明日に続く。】