第391回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第390話 初めての江田島の夜の事。2013年3月17日 日曜日の投稿です。
小用の桟橋に上陸して、整列した、源田實生徒は、海軍大尉から、簡単に、
今後の予定を説明を受けた後、 名前を呼び出されて、各自が10名から5名程度
の組に分けられて、
後に整列していた、兵学校の先輩生徒の案内で、宿舎に向かうことになったのです。
源田 實 生徒は、8人の組の中に入れられ、 その中には、淵田美津雄生徒と
一緒に、奈良から来ていた、小池伊逸 生徒も、一緒の組であったのです。
源田生徒達の前に、きりっとした姿で、進みでた生徒は、「 自分は海軍兵学校、
3号生徒、花岡 雄二である。 本日、貴様らを宿舎に案内することとなった、全員、
途中ではぐれないように、自分の後をしっかりと、ついてくるように。」と、挨拶が
あると、花岡生徒は、歩き出したのでありました。
他の組みも、一緒にどんどんと出発していき、源田生徒達も、遅れてはならじと、
花岡生徒について後を離れないよう小用の町の中に進んでいったのです。
セミの鳴く、7月の暑い日差しの中を、源田生徒達は、のどの渇きをこらえながら、
人が2人程度歩ける程度の路地を、どんどん進んでいき、一軒の漁村の民家に
到着したのです。
花岡生徒は、「 川口さん、兵学校の3号生徒の花岡雄二であります。」と、大声
で叫ぶと、おじいさんが出てこられ、「 みんな、よう、きなすった。 さあさあ、きたな
ーーところですが、なかへ、はいってつかーさい。 」 と、招き入れられたのです。
我々9人は、 そのまま、ぞろぞろと、土間の入り口に入って行き、 広間に通され
たのでありました。
我々9人は、正座をして、 「ご厄介になります。」と挨拶して、 自己紹介をすること
になったのです。
まずは、花岡生徒からで、 「 ここ数日、貴様らの面倒を見る係となった、群馬県
の出身の花岡雄二である、 なんでも、相談するように。」 と、丁重に大声で挨拶
があったのです。
第51期生徒の 花岡雄二生徒は、フランスに海軍武官として駐在し、語学が堪能で、
後に、連合艦隊参謀になり、 海軍大佐に進級し、 暗記力に優れ、 話しやすい
人であったのてす。
自分と同じ分隊になり、良く面倒を見ていただいたのを覚えています。
次は、 「徳島県から来ました、 金元好廣であります。」と、挨拶があり、 金元好廣
君は、私と同じく、航空畑を進んで、大佐まで進級するのでありますが、谷田部の
空で、戦死してしまうのですが、運動神経に優れ、頭の回転が良く、秀才で、戦死は、
ずいぶんと後の出来事でありました。
次は、私の番で、「 広島の加計から来ました、源田實であります。」と挨拶する
をしている時に、海軍兵学校の企画課長をしていた人物でありました。
戦後も、井上閣下とは、長くつきあいをしていた人物でした。
「 香川県から来ました。佃 定雄です。」 と、挨拶があり、 佃 定雄生徒は、
有名な生徒でありました。
「 栃木県から来ました。 清水洋であります。」 と、挨拶があり、 清水洋生徒は、
第1航空艦隊の参謀となり、闘将として知られた、角田少将と、マリアナ諸島のテニ
アン島で、玉砕してしまうのですが、23年後の事でした。大変おしい人物であった
のです。
「 福岡県からまいりました、石井 励 であります。」と、挨拶があった、海軍大佐
石井 励 生徒は、昭和19年の台湾航空戦で、戦死してしまうのですが、良い
性格の勤勉な生徒でありました。
「熊本県から来た、横手克己であります。 よろしくおねがいいたします。」と、挨拶
があった、横手克己生徒は、熊本の三池中学の秀才で、 我々52期の生徒の中
では、少将まで、昇進したのでありますが、 例の空母信濃に乗り込んでいて、
和歌山沖で、戦死してしまうのですがおしい人物でありました。
「奈良県から、来ました、小池伊逸であります。 よろしゅーたのみます。」と、挨拶
があった、小池伊逸生徒は、 潜水艦屋になり、イ号潜水艦の艦長などを歴任して、
しない、海軍乙事件で、福留参謀長と2式大艇に同乗していて、事故死してしまうの
ですが、 そのまま、海軍生活を続けていたら、中将にも昇進できたであろう、そん
な優秀な、人物であったのです。
以上、7人の生徒と、一緒に、同宿することとなったのです。
【次回に続く。】